条家:鎌倉時代末期】
前回からの続き・・・
鎌倉幕府(北条政権)はモンゴルの攻撃を頑張って
食い止めてくれた九州の武士たちに・・・
「褒美をあげることが出来なかった」
鎌倉時代から将軍と家来の間には「御恩と奉公」関係があった。
武士たちは命をかけて将軍を守る代わりに
土地や、褒美をもらっていたが、モンゴルとの
戦いで【武士と北条政権との信頼関係が崩壊】
これが鎌倉幕府滅亡へのきっかけとなった。
⇩ 前回の鎌倉時代の物語 ⇩
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わかりやすい歴史!日本の歴史簡単にわかりやすく解説!日本史年表で流れを学ぶ!日本の歴史漫画も。【鎌倉時代まとめ】
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わかりやすい歴史【鎌倉滅亡〜室町時代へ】
当時の鎌倉幕府(北条政権)は権力の拡大のため
強い武士を「ヘッドハンティング」していた。
しかし、中には北条政権を好まない武士も・・・。
そうですよね、そりゃいますよね❗
幕府からの声掛けを無視した武士たちを北条政権は
「悪党」と呼びました。その「悪党」の中でも
最強の男が楠木正成(くすのきまさしげ)。
なんか・・・聞いたことがあるような、ないような・・・
彼はその強さから高額な懸賞金をかけられていて
大阪の「千早城」に居城を持ち、次から次へと
やってくる武士を倒していた。
むちゃんこ強いじゃないですか❗
一方京都では・・・
北条家に仕えていた有力一族の「足利家」が
いました。
この一族は北条家の右腕として各地で連戦連勝の
実績を上げてきた。もちろんモンゴルとの戦にも
参戦し、大活躍をした。
【北条家】も聞いたことがあります❗
彼らは北条家のために命をかけたが・・・
「恩賞が今まで増えなかったこと」に加え・・・
モンゴルとの戦いで「恩賞がもらえなかった」。
こうした不満が限界に達していた・・・。
そこに【天皇家】がそっと近づいてきます・・・。
天皇家のある男が「天皇権力再興」を狙い、
恩賞に悩む足利家に接近❗「協力してくれたら
報酬と地位はは思う存分に与える❗」と・・・
天皇家と足利家が【超強力タッグ】を組んだ❗
お〜すごいっ❗天皇家はお金はありますもんね❗
さぁ・・・北条家が大ピンチです❗
わかりやすい歴史【天皇家 featuring 足利家】
その天皇家の男が「後醍醐天皇」足利家の男が
「足利尊氏」です。
ここで出てくるわけですね❗
かつて朝廷(=天皇家)は鎌倉幕府を倒そうと
反乱を起こした。これが1221年の「承久の乱」。
前回の記事にも登場しています❗大切なので復習してくださいね❗
源頼朝の妻「北条政子」 VS 実権を握られていた
後鳥羽上皇の戦い。この戦いが「承久の乱」で
天皇による政権を再び取り戻そうと後鳥羽上皇が
政子に喧嘩を売った。
勝利した鎌倉幕府(政子)は二度と天皇一族が
反乱を起こさぬよう「天皇一族を監視する施設」
を建設。
それが京都の「六波羅探題」で、後醍醐天皇と
足利尊氏は協力、この「六波羅探題」を狙い
見事「六波羅探題」をぶっ壊した❗
なるほど・・・六波羅探題には天皇の仲間がたくさんいるわけだ❗
そのとおり❗
六波羅探題含む近畿地方では、北条家に不満を
持つ武士たちが次々と天皇家・足利家グループに
加わり、一大勢力となり鎌倉に進んだ❗
鎌倉幕府(北条家)はこれに驚愕❗
「やばい❗どうしよう鎌倉を守らねば❗」
そこで鎌倉幕府は「ある男」に救援を求めた。
その男は先程にも登場した「千早城の戦い」
に参加した鎌倉幕府の中で優秀な武士の一人。
彼は北条家が政権を担当している鎌倉幕府の為
戦っていましたが千早城の楠木正成の力に驚愕。
敵であった楠木正成も彼に目が止まり
同じ仲間として戦えないか説得❗
楠木正成は言います。
「こちらは天皇家「後醍醐天皇」が味方にいる❗
そなたの力は素晴らしい。共に戦い、腐敗した
北条政権、鎌倉を一緒に倒そうではないか❗」
話を聞いたその男は何も言わず関東に戻った。
男が地元に戻ると鎌倉幕府が戦争の備えのため
納税の取り立てを強化していた・・・。その時
男は思いました・・・。
「幕府は命をかけ戦った私の命より税である
米のほうが大事か・・・。本当に腐っている。
・・・よし❗私は天皇家復興のために戦おう。
今こそ・・・反旗を翻す時❗❗❗」
ついに彼は北条家を裏切り、鎌倉幕府を滅ぼすため鎌倉に攻め入る❗
お〜❗ついに寝返った❗誰なんですかその男❗❗❗
その男が「新田義貞」
「あの新田義貞が寝返ったのか!?」と
鎌倉幕府は大混乱❗今までの北条政権に恨みを
持つ者も次々と倒幕派へ寝返ってしまった❗
え❗どうなるのどうなるの!?
新田義貞の勢いはどんどん加速❗鎌倉を包囲し、
ついに勝敗は決まった・・・。鎌倉の北条家が
倒幕軍に囲まれ800人がその場で自害❗
鎌倉幕府はこうして終わりを迎えた・・・
800人が集団自害・・・恐ろしい・・・。
天皇の復興を狙った「後醍醐天皇」。北条家に長く
仕えるも手荒く扱われた「足利家」。
幕府に所属していない武士「楠木正成」。
北条家にとってはただの家臣だが崩壊のきっかけと
なった人物・・・「新田義貞」。
様々な人間関係により鎌倉幕府は幕を下ろした。
わかりやすい歴史【鎌倉幕府滅亡後の日本】
源頼朝が作った鎌倉幕府は「武士中心の政権」
でしたが、新時代は後醍醐天皇を中心とする
「公家(くげ)中心の政権」となります。
いろいろ変わるんですね。ご褒美もどうするのかなぁ・・・。
後醍醐天皇が新たに行ったのが「建武の新政」。
あれ?これも聞いたことがあります❗
今さら「天皇が絶対だ❗❗」な〜んて
やってしまったらまた大きな反乱が起きる。
たしかに・・・。
後醍醐天皇のそうした気持ちはよくわかるが・・・
天皇中心の政治はもはや不可能であった。
では一体どうするのか・・・。
武士たちは足利尊氏のもとに集まり言った。
「天皇にまた使われて終わりは嫌です❗
尊氏さんがリーダーになれないんですか?
後醍醐天皇なんて嫌だよ・・・❗」
こうした思いが強かった日本・・・
え・・・また戦争ですか!!!?
戦争にはなりません。日本に新しい時代がきます❗それが・・・・・
新たな時代【南北朝時代】へ入ります❗
どういうことかというと・・・
北は足利尊氏がリーダー、南は後醍醐天皇・・・
というように北と南に分かれて政権運営する
南北朝時代へ突入します❗
なるほど❗それならまぁいいか❗
この南北分裂が「60年」も続く❗
意外と終わりはあっけなくて・・・「後醍醐天皇」が
崩御(死亡)し、足利尊氏も死んでしまう・・・。
張本人がなくなり・・・分裂の意味ある?って皆がなった。
この南北分断状況を解決し・・・南北合体を
成功させたのが「足利義満」。
金閣寺の人だ❗あ、でも60年もの分裂をどうやってまとめたの?
そうですそうです❗あ、ちなみに「寺と神社の違い」も学んでおきましょう❗
⇩ さぁ、あなたはわかりますか? ⇩
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実は、天皇中心政権と言いつつも実権は
武力にまさる北部の足利家が持っていた。
そこで考えました・・・
実権者が死んだら実権継承権を譲るのはどう?
と、継承者を交互にすることで和解した。
北側の実権者が死んだら、その権利は南にいく。それを交互にしていく。
なるほど❗その南側の実権者が死んだら、政治の権利が北に行くってことか❗
そうそう❗順番なら誰も文句は言わない。むしろ皆が頑張る。
切磋琢磨するんですね❗へぇ〜それはナイスアイデア❗
こうして60年にも及ぶ南北分裂は落ち着き・・・
武家の象徴「鎌倉エリア」から、天皇家ゆかりの
「京都」の室町に幕府を新設した。
わかりやすい歴史【室町時代スタート】
武家の鎌倉から、【公家の京都】になったが
まだまだ中心は「武士」ということで・・・
京都の「高貴な文化」と武士の「勇ましさ」
この2つが融合した時代が【室町時代】の特徴❗
それに加えて・・・
足利義満が行った「日明貿易」により中国の
【明王朝文化】が日本に大きな影響を与える。
その超融合文化により誕生した象徴的な建造物が
「金閣寺」(別名:鹿苑寺)
優美で勇ましく繊細で、華麗できらびやかな
室町時代がなんと【100年】つづきます❗
ひゃ・・・ひゃくねん❗❗
ところが・・・・その華やかな時代も
いつか枯れてしまう時が来る。
そのきっかけとなる反乱はその後の大乱世への
原因となる反乱となる・・・。そしてこの反乱が
あの【戦国時代のきっかけ】となるとは
誰も想像してはいなかった・・・。
その反乱が・・・
わかりやすい歴史【戦国の幕開け:応仁の乱】
刻一刻とこの戦が始まろうとしていた・・・
きた❗戦国時代❗❗面白くなってきました・・・教えて下さい❗
ちょっと長くなってしまいましたので、次の物語でお話しましょう❗戦国時代幕開け、応仁の乱までの物語❗
⇩ ついに時代は戦国時代へ❗ ⇩
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