ついに記事も「戦国時代」へ❗
戦国時代突入までの流れは
下の記事で復習してくださいね❗
⇩ 各時代について ⇩
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目次
【戦国時代年表】応仁の乱へ突入❗

応仁の乱は、前回の記事で登場した
足利義満の孫である「足利義政」に
大きく関係があります。

あの金閣寺を造った「足利義満」のお孫さんですね❗
1464年、室町幕府8代将軍「足利義政」は
子供に恵まれず・・・仕方なく
弟の足利義視(よしみ)に
後継者をお願いした。

ところがです・・・・・・・
足利義政の妻「日野富子」が男子を産んだ。
名前を足利義尚(よしひさ)
ぎょえ〜❗それはやばい❗後継者決まっちゃったのに❗


やはり足利義政にとって弟(義視:よしみ)より、自分の子(義尚:よしひさ)を後継者にしたい。
まぁ、わかりますけどね❗でも、決まっちゃったから・・・・

どうしても自分の子を次の将軍にしたい❗
と日野富子は・・・・強力な武将である
「山名家」に義視(よしみ)討伐要請を❗
「旦那の弟をぶっとばすのよ❗」
そうなっちゃいますよね・・・。そうなっちゃう。

対する足利義視も
有力者「細川家」に協力要請❗
「兄貴と嫁を・・・ぶっ倒す❗」
こうして「義尚&山名 VS 義視&細川」
というバチバチの関係が成立。さらに・・・
当時「猛将」といわれた最強武将
「畠山家」も相続争いで喧嘩中でした。
その畠山家もそれぞれが東西に別れた。

もう、最悪ですよね・・・。勢力図はこうです。

有力武将である「武田家」や「一色家」も
参戦し、その戦は7年にも及んだ。
ひえ〜❗これどうやって終わったんですか?


応仁の乱発生当初の「言い出しっぺたち」が「寿命」を迎えます。
山名家・細川家それぞれの総大将が
病気により死去。それぞれの後継者が
和平交渉へ❗誰も得をしないまま
京都は荒れ、応仁の乱は終結を迎えた。
室町幕府の権力も落ち、応仁の乱に
参加した有力者たちは「地元」に帰った。
京都周辺が戦場となり、荒廃・・・
弱体化してしまった・・・。
一方で、「何も犠牲のなかった場所」
がある・・・それが「地方」だ。
つまり・・・応仁の乱の最中に
国力を蓄えることができた
「地方」が下剋上を起こす❗
なるほど・・・京都周辺は焼け野原ですもんね❗

次なる国のリーダーは一体誰なのか。
この「椅子取りゲーム」が始まるのです❗
これが戦国の世への突入への流れです❗

「猛将:畠山家」は河内国(かわうちこく⇨現:大阪)に帰り、力で土地を支配した。
足利義視は美濃国(みのこく⇨現:岐阜南部)
武田は甲斐国(かいこく⇨現:山梨県)

あの山梨県の【甲斐の虎】の武田信玄の武田ですね❗
こうして戦国時代が進むにつれ
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の
「戦国の三英傑」であったり・・・
独眼竜「伊達政宗」
日本一の兵(つわもの)「真田幸村」
甲斐の虎「武田信玄」
越後の龍「上杉謙信」
海道一の弓取り「今川義元」
など、多くの戦国武将が登場するのです❗
お〜❗知っている人たちばかりです❗詳しくは話さないんですか?


いつかお話します❗ここでは「戦国の風雲児」こと織田信長の話で流れをつなぎます。
織田信長を知らない人はいないでしょう❗
織田信長の戦で有名なのが・・・
「長篠の戦い(愛知県)」
相手は先程あげた「甲斐の虎」武田信玄。
武田軍の騎馬隊は天下一と言われていた。
馬に対して普通なら馬で戦います。
織田信長は 「奇才の風雲児」
信長は「音」で戦ったのです。
音!?どういうことですか!?

彼は当時あまり流通していなかった
「鉄砲」を使い武田軍を圧倒します❗
あ❗【長篠の戦い】・・・学校で勉強しました❗馬が銃声にびっくりしたとか・・・


織田信長の凄いところはこれだけではありません❗
今までの軍制を一新し「戦専門の傭兵」を
創設した。
戦(いくさ)専門?どういうことですか???

当時の武田軍も他の武将もそうですが
戦に出る兵士は農家の仕事もしている。
自分たちの領地に危険が迫ると
領地を守るため畑を耕すのをストップし
兵士として戦うんです。そして・・・
戦が終わったら自分の領地に帰る。
はい。そうですよね❗戦にも参加、農業もしっかりやる。

ところが信長は・・・
農地で働く人を兵士として採用せず
「お金で兵士を雇った。」
つまり・・・1年中戦が出来る「戦専門軍隊」
を誕生させた。さらに・・・この軍隊を使い
前代未聞の【 ある行動 】に出ます。
なんだろう・・・全く想像できません。次に何を狙うんだろう・・・。

日本人が切っても切り離すことが出来ない
「仏を信仰する集団」を攻撃すること。
そう・・・・仏教徒の抹殺です。

ま・・・・・・抹殺!!!?
神にすがる仏教徒は
ある意味で織田信長には邪魔であった。
あ〜❗❗【比叡山の焼き討ち】ですね!?ゲームでやったことがあります❗


その通り❗比叡山は女性に一番人気のあの「浅井長政」をかくまったことでも信長と対立していた。
⇩ 寺と神社はどう違う? ⇩
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この時代は強固な「仏教文化」です。
この比叡山は仏教寺院の中でも
「仏教聖地」と言われた場所だった。
「信長が来るわけがない。
攻められるはずがない・・・。」
と思っていた比叡山の僧侶たち・・・

仏教僧を攻撃するということは、神を、仏を敵にすることですからね。
お賽銭や、奉納など
当時の日本で一番のお金が
この「比叡山延暦寺」に存在した。
戦に勝ちたい❗神のご加護がほしい❗
比叡山延暦寺で祈祷をしてもらうのです。
なるほど・・・今も神社に神頼み・・・ってありますもんね❗

また織田信長は「成果」を求めた人事をした。
古くからの付き合いでも
仲良しグループでもなく・・・
成果を上げ、有言実行する
部下を重宝しまくった。
逆に言うと成果が出なければクビ。
ノルマを課すことで部下を促した。

逆に言えば、成果を出せば、誰でも出世ができるというわけです。
織田信長がなぜここまで色々出来たのか・・・
越後(新潟)の上杉謙信
甲斐(山梨)の武田信玄
仙台(宮城)の伊達政宗
加賀(金沢)の前田利家
尾張(名古屋)の徳川家康
など・・・
彼らには出来ず、なぜ織田信長が!?
たしかに・・・なぜだろう・・・。

戦国時代勢力図【なぜ織田信長が・・・】

その一番の理由は・・・
「信長が京都に一番近かったから」

先程の「延暦寺」も滋賀県にあります❗
先程名前をあげた各地の戦国武将が
天下を狙おうと京都に出兵すると・・・
彼らの地元はどうなりますか?
例えば伊達政宗・・・

独眼竜の名のもとに、京都を目指し、
天下を取ろうと計画をしていたかも。
しかし、伊達政宗にとって京都は「遠い」。
京都に行く間、伊達政宗がいない間
新潟の上杉に領地を奪われる可能性がある。
なるほど❗戦国武将たちは地元を動けなかったのか・・・。あ、でも畠山は大阪にいるのでは?


畠山のいる大阪は「応仁の乱」で絶賛荒廃中。領地修復が最優先です。
各場所ごとにリスクがあり、
簡単には動くことができない。
近隣とのにらみ合いで精一杯。
織田信長はそういう意味で
地理的な運も持っていた。そして、
行動力、先見性のある武将であった。
ところが・・・
成果重視、怖い存在であったその人柄が
自分自身の首をしめることになってしまう。
人気戦国武将:織田信長自害❗【本能寺の変】

1582年の出来事・・・実行者は「明智光秀」
信長にとっては古参の武将ではなく
「新参者」であり、結果を次々と残す
「エリート武将」の1人でした。
「敵は本能寺にあり!」
と本能寺に滞在していた織田信長の
就寝中に夜襲!焼ける本能寺の中で
織田信長は自害した・・・。
【人間五十年、化天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり】
と舞い、死んでいったそうな・・・。
「人の世の50年は、
天の時間と比較すれば、
夢か幻のように儚いものだ。」
といった意味で、さらに噛み砕くと
「時の流れとはあっとうまに
過ぎ去ってしまうもの」という意味・・・。
なんかいろいろと明智光秀も大変だったみたいですね・・・。


さぁ❗日本は一大事です❗国をまとめるリーダーがいなくなったわけですから。
これを見てすぐに動き出した男がいた。
信長に「サル」と言われ、
信長の草履(ぞうり)を温めていた
その男・・・
で〜〜〜〜〜た〜〜〜〜〜〜サルっ❗

人気戦国武将:太閤殿下【豊臣秀吉】

信長の訃報を聞き
悲しみにふける部下達を横に・・・
「あれ?これ・・・光秀倒したら
天下取れるチャンスじゃね?」

好機を伝えたのが、「黒田官兵衛」だと言われています。彼は秀吉に「ご武運が開けました。」と言ったそうな・・・
「道がひらけた」・・・官兵衛も先見の明がすごいですね。恐ろしいくらい

こうして秀吉は誰よりも早く行動に移した。
当時の秀吉は信長の命令により
現在の山口県にいた「毛利家」と交戦中。
あ❗あの「三本の矢」の毛利家ですか!?


そう❗1本の矢だとすぐ折れるが、3本なら折れない。3人の息子よ。おまえたちも一人ひとりがばらばらになることなく、団結せよ❗ってやつ。
豊臣秀吉は毛利家との戦いの最中
殿である「織田信長の死」をきいた。
普通なら信長様のために、毛利を倒し
「冥土の土産」とするはずですが・・・
すぐ毛利家と和睦(仲直り)し、休戦。
その際「織田信長の死」は伝えません。
そして中国地方から本能寺に向け
猛ダッシュで引き返します。
毛利としてもラッキーですね❗突然の和睦で領土安泰ですもんね。

秀吉は道中に松明(たいまつ)を掲げ
休むことなく、夜も走り続け・・・
誰よりも早く「明智光秀の討伐」つまり
織田信長の敵討(かたきう)ちに向かった❗
これが有名な「中国大返し」です。
山崎の戦いで明智光秀に打ち勝ち
見事「織田信長の敵討(かたきう)ち」に
成功した❗でも実は、豊臣秀吉は
織田信長にとって
一番信頼できる部下ではなかった。

柴田勝家や丹羽長秀や滝川一益らの重鎮たちこそ【信長の右腕】でした。
豊臣秀吉はそんな重鎮になど
頭が上がるわけがない。
その右腕たちも明智光秀を倒しには行かなかったんですか?


情報はもちろん聞きましたが「それどころではなかった。」一番の右腕「柴田勝家」は新潟の上杉と激戦中。
いち早く敵討ちに成功したことで
一気に頭角を現した豊臣秀吉。
そしてその後、信長の側近たちによる
「次のリーダーを誰にするか会議」
が開催されることになった。
その会議が・・・
信長の後継者を決める「清須会議」

三谷幸喜監督で大人気映画にもなりました❗
信長には3人の後継者候補がいた。
信長の長男は亡くなっていたので
会議では、信長の「次男と三男」
どちらかにしようという話になった。
重鎮:柴田勝家が言いました。
「見るからに信長様の次男坊は
後継者にふさわしくない。三男で決定だ。」
しかし、秀吉はこう言いました。
「みなさん?お忘れではありませんか?
次の後継者は信長様の次男でも
三男でもありませんよ・・・。」
どちらでもない!!!?

亡くなった長男には男の子がいた。
その子供は信長の孫になる。
続けて秀吉はいいます。
「後継者はお孫さんでしょ。」
おぉ❗❗


こうくるわけです❗
もちろん誰も文句は言えず・・・
後継者は満場一致でその孫(名を三法師)
に決定❗
サル・・・とんでもない・・・。

清須会議には更に凄いオチが・・・。
後継者が三法師に決定し
就任式を清須会議の最後にやることに。
「後継者❗三法師様の〜〜〜〜
おな〜〜〜〜〜〜り〜〜〜〜〜〜❗」
その三法師を抱きかかえ連れてきたのが
「豊臣秀吉」だった❗
柴田勝家、丹羽長秀ら重鎮は
三法師を前に頭を下げるが・・・
その三法師を抱いているのは豊臣秀吉。
・・・つまりっ❗
亡き織田信長の右腕であった有力武将らが皆
「豊臣秀吉に頭を下げた」ということ。
おぉぉぉぉ❗秀吉凄い❗してやったりですね❗❗❗

実は重鎮:柴田勝家は最初に
秀吉に頭を下げることをためらった。
その様子を見て秀吉は「ニヤリ」と
不敵な笑みを浮かべこう言います。
「柴田勝家殿❗三法師様に頭を下げぬとは❗
裏切り者と判断してよいのかね?」
柴田勝家はこうして渋々頭を下げた。
まさにその景色は信長の部下全員が
「秀吉に頭を下げた」景色であった・・・
秀吉、狙い通りなんですね・・・すごすぎます・・・次のがみたいです❗


次はついに秀吉から家康へ❗江戸時代へ進みます❗
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